ドイツ、ベルリン ~~ 東ドイツ時代の滞在

1989年の7~9月の2か月間、東ベルリンに住んだ。その2ヶ月後の11月にベルリンの壁が崩壊するのだが、そんな歴史的瞬間を直前にして、テレビのニュースでは毎日のように、その日に国境から脱出した人数を伝えていた。


私が滞在したのはベルリン市の北の境目辺りで、現代音楽の作曲家の家だった。夫人は小さな教会のオルガン奏者で、家族はその教会の付属の家に住んでいた。

質素な家だったが、広めのリビングには、グランドピアノとハープシコードがあった。2人の娘は小学生で、下の娘は習い始めたばかりのバイオリンの練習に熱を入れていた。4本の弦をブレーメンの音楽隊のロバ、犬、猫、鶏になぞらえていたのが、いかにもドイツらしかった。

教会には、小さなパイプオルガンがあった。毎週日曜のミサに集まってくる人々は、オルガンの伴奏で賛美歌を歌う。私はクラリネットを持参していたので、一度教会でコンサートを行った。曲目はバッハのG線上のアリアと、ウェーバーのクラリネット協奏曲。パイプオルガンの伴奏で楽器を吹くのは、なかなか不思議な感覚だった。

家には小さな庭があり、野菜を作って食料の足しにしていた。物資は本当に少なかった。肉屋に肉の入荷があると、人々は列を作って順番を待った。

近所に映画館が一つあったが、5人揃わないと上映できないという決まりがあり、何度か待ったものの、いつも3人くらいしかいなくて、結局見ることができなかった。

車は、かの国民車トラヴァント。遊園地のゴーカートに屋根をかぶせたようなものだった。購入希望を出してから納車までに、なんと18年くらいかかることもあり、みな親の車に乗り、子供がいればその子が成人したときように、もう一台注文しておく、といういうような状況だった。


父親の実家は、東ドイツ南部のチューリンゲンにあった。夏休みの間、3週間ほど家族でそこに里帰りした。「チューリンゲンの森」と言われるように、豊かな自然に囲まれた美しい場所だった。広い放牧地は動物園のようで、パン屋でパンを買う以外は、すべて自家製という、自給自足の生活だった。

東独の貧しさは、首都ベルリンでは身をもって実感したが、田舎では食べ物に困らない分、生活にはめぐまれているように見えた。

当時の東ドイツでは、外国に行くことは禁止されていたが、スポーツ選手と芸術家、音楽の演奏家は例外だった。両親は作曲家として、海外に行くことができる知識層だった。

2カ月後、東側から西側に出た時、それまで住んでいたモノクロームの世界が、突然カラーになった。そんな印象だった。

30年ぶりだというと、ベルリン在住者に「随分変わったでしょう?」と言われたが、アジアのすさまじい発展ぶりを見てきた後では、まるで時間が止まっているように思えた。

ベルリンの壁は、現存する場所や、博物館、通行の関所だったチェックポイントチャーリーなど、これといった観光地が少ない市の中で、今や一番の観光名所になっている。負の遺産は、現代社会の中でも永遠に残っていく役割を与えられたようである。