アメリカ、ニューオリンズ ~~ ジャズとビールとマルディグラ

ジャズ発祥の地として知られるニューオリンズは、アメリカ南部ルイジアナ州のミシシッピ川沿いにある。フランス植民地時代の面影を色濃く残す、独特の文化を持つ町である。


ニューオリンズに一か月ほど住んでいた。単にジャズが好きだという極めて単純な理由からだった。大学の学生寮に泊まっていたため、よく一緒に出歩いたのは、主に中南米から来ている学生達だった。彼らと一緒に毎日良く食べ、良く飲んだ。


クレオールやケイジャン料理も美味しかったが、なんてことない普通のビザが超絶ウマかった。こねて丸くした大判の生地をクルっと回しながら、空中に高く投げる。くるくる回りながら落ちてくる生地をさっと受け止めて、これを何度か繰り返す。そこにソースやトッピングをたっぷり乗せて、ふかふかに焼き上げられる特大サイズのピザは、なんとも言えずジューシーで、食べ応えも満点。これまでピザだと思っていたものは何だったのかと思うような、全く別の食べ物だった。

美味いピザにはビールが欠かせない。とにかく良くビールを飲んだ。仲間たちでバーに繰り出しては、ドリンキングゲームと称して、ピッチャーのビールをガブ飲みする毎日だった。

よくやっていたのは、“ペヌルティモ” というゲーム。ペヌルティモとは、スペイン語で「最後から2番目」を意味する。グループでテーブルを囲み、バケツのようなピッチャーを注文する。一人ずつ順番に回し飲みをし、最後に誰かが飲み干したら、その直前の人間が、次のピッチャーを買う。最後から2番目の人間が次のビール代を出すから、ペヌルティモと呼ばれていた。

ピッチャーの残量が減ってくると「ペヌルティモ」にならないように、みんないろいろと作戦を実行した。あと2人分くらいの量だと判断したら、次の人間が飲み干さないように、ちょっとだけ飲んで回した。次の人間が飲み干しそうな量なら自分で頑張って最後まで飲むので、みな大盛り上がりではやし立てた。一人が飲むのは一息のみ。一度息をついたら次に回すのが決まりだ。飲み干しそうになると、ゴクゴクやっているところを何とか笑わせて噴き出させようと、直前の人間がジョークを連発したりした。


ニューオリンズの中心部は、フレンチクオーターと呼ばれる。ルイジアナが仏領だった頃の面影が今でも残っている。通りの名前はフランス語で、~~Street を意味する、Rue de~~で書かれていたり、通りに並ぶ建物は、瀟洒なテラスが特徴のコロニアルスタイルそのままだったりする。

昼間は通りのあちこちでストリートパフォーマーが熱演を繰り広げる。歩いているだけで、リズムにどっぷり浸かることができる。こんなところに生まれたら、誰でも無意識のうちにミュージシャンになりそうだと思った。

夜はジャズクラブでプロの演奏が聴ける。有名どころは入場料が必要だが、気軽にドリンクだけでライブ演奏を聞かせる店もあり、窓を開け放したオープンな店だと、ドリンクさえ注文しないで、窓からそのまま演奏を眺めていることさえ、ウェルカムだった。店内も大にぎわいだったが、窓の外の聴衆も絶え間なくびっしりだった。

音楽がタダで聞けるのと町の熱気が気に入り、私は毎晩のようにフレンチクオーターに通っていた。

グループで繰り出すと、ついつい飲みすぎてしまう。立っていられず床にへたりこむこともあり、そろそろ帰ろうというときになっても立ち上がれずにいると、みんなが順番に私を担いで帰るハメになった。寝泊まりしていたのは大学の学生寮だった。タクシーが止められる場所から、寮に戻るには広いキャンパスを横切らねばならず、かなりの距離を歩く必要があった。自分では歩けない私を両腕で抱えて歩き、腕が疲れてきたら「次~~!」と叫んで、リレーのバトンのごとく、丸まった飼い猫でも手渡すようにして順番に運んでもらい、ようやく寮まで戻ったこともあった。


2月はマルディグラの季節だ。マルディグラは、リオのカーニバルと並ぶ、世界的に有名なカーニバルである。人混みでごった返し、歓声が鳴り響く町中を、飾り立てた山車が途切れることなく練り歩き、観客に向けておもちゃや首飾りを大量にまき散らす。

ゲットした首飾りを戦利品のようにジャラジャラとつけるのが、ちょっとした自慢になっていて、みんな競ってつけていた。

なぜか女性は胸を見せる慣習があり、そうすると山車からゴージャスなネックレスを投げてくれたりするので、熱気の中で気が大きくなるのだろう。誰でも割と普通に下着を付けずにTシャツをめくり上げていた。さすがにそれは出来なかったが、幸運にもちょっと豪華なネックレスをゲットし、それをつけていると、「見せたでしょう?!」というからかいの対象になった。顔中に派手なペイントを塗り、目立つ仮装をして騒ぎにいくのは意味もなく楽しかった。


一か月はあっという間に過ぎた。まともな会話などしないので、英語はまるで話せるようにならなかった。代わりに、片言のスペイン語を覚えた。友人たちが帰国するのに合わせ、彼らを訪ねながら中南米を最南端まで下がっていくことにした。