ノルウェー、モロイ ~~ フィヨルドの町でヨットに出会う

                          

南北に細長いノルウェーは、北部は吹雪に見舞われる北極圏だが、南部の海岸沿いは、温かいメキシコ湾流の影響で、冬もほとんど雪が降らない。


ノルウェー南部の港町モロイは、西側の海岸線が海に向かって一番張り出した辺りにある人口3,000人ちょっとの小さな町で、主要産業は漁業。ノルウェーでも有数のサバの水揚げ地で、国内トップクラスの規模を誇るサバの加工工場があった。


一か月の滞在期間、いくつかある工場を回り、魚の検品をするが私の仕事だった。

沖合いで獲ったサバを満載した漁船が、連日に港に入ってくる。当時できたばかりの新型の工場には、船を横づけして直接魚が送りこまれる設備があった。魚が入ってくると皆一気に忙しくなる。ベルトコンベアで流れてくる魚をサイズごとに選別して次々と箱詰めしていく。

規格に合わせて10kg、20㎏などに箱詰めされると、すぐにマイナス30度の冷凍庫に入れられ、急速冷凍される。ときには、宇宙服のような防寒着を着て、冷凍庫の中で保管状態や温度管理の点検などもした。

複数の工場を移動するため、片道一時間程度の距離を車で走っていた。町はフィヨルドの入口にあり、崖を削って作られた道路からは、眼下に広がる海がどこまでも眩しく輝き、言葉で表せないほど美しかった。いつも途中で海の美しさに見とれて、景色の良い場所で車を止めては、海を眺めて道草を食っていた。崖っぷちの道路にはガードレールもカーブミラーもなかったが、時折通る大型トラックなどは慣れたもので、結構なスピードでぶっ飛ばしていた。


この町には、娯楽施設というようなものはなかった。レストランが一つ、他には小さな映画館が一つ。行けば必ずご近所さんに会う。数日滞在するだけなら良いが、一か月もの間、味気ない狭いホテルの部屋に缶詰めになるのはかなわないと思い、滞在日程が決まるとすぐに、取引先の会社に、ホームステイさせてくれる家を探してもらえないかと依頼してみた。

取引先は、自社の社員の中で希望者を募ってくれた。しばらくして滞在先が見つかったという知らせが届いた。


海を隔てて大きな橋で繋がる町の半分は急斜面にあった。家々を繋ぐのは、ジグザグに斜面を上る道路。その一番上に、私が一カ月お邪魔することになった家があった。両親と小学生の娘が3人の若い家族だった。

北欧イメージそのものの、素朴で温かい家だった。3人娘がはしゃぎ回り、家の中はいつも賑やか。お父さんはギターの名手だった。友人たちが集まってみんなで歌を歌ったり、ときには日本食のパーティーをしたりした。料理がまるでダメな私が作るものは、およそ日本食と呼べるものではなかったが、誰もそんなことは知る由もなく、味は別として、珍しい異国の食べ物を面白がってくれた。

こうして集まるメンバーの中に、家族ぐるみで親しくなった家がもう一軒あった。彼らは町を繋ぐ大橋を渡ったところに住んでいた。サーモンの養殖場をやっていて、ときどきファームに行っては、バシャバシャと跳ね回る巨大な鮭を一匹網ですくいとり、みんなで晩のおかずにして食べた。シンプルに焼いたりスープにしたりするのが、また格別の味だった。


滞在していた家族はヨットを持っていた。帆を張って風で進むセーリングヨットだ。週末になると、ヨットでフィヨルドを上って近隣の町に出かけ、一泊して戻ってくる。操船は特に習ったわけではなく、他人の船に乗って見よう見まねで覚えたのだという。小さな娘たちも船旅を存分に楽しんでいた。

船は家から車で数分先の岸壁に係留されていた。彼らは特別に富裕層というわけではなく、一般のサラリーマンだったが、普通に車を買うような感覚で船に乗っていた。この地域は、海やフィヨルドが複雑に入り組んだ地形で、道路より水路の方が遥かに便利だ。人々にとって船は、生まれた時から身近にある生活の足だった。

私が生まれて初めてヨットに乗ったのは、そんな環境だったから、ヨットというのは誰でも気軽に持てる庶民の乗り物だと思っていた。世間一般的にヨットが富裕層の遊びだと思われていると知ったのは、日本に帰ってからだった。例え船が安くても維持費が高いのだ。しかし、何でも最初にインプットされた印象というのはずっと残るもので、私の頭の中では未だにヨットは “庶民の遊び” であり、今後もずっと “身近な乗り物” であり続けるだろう。海のそばに住まないと、それも叶わないけれど。

このときの経験は、その後ちょっとした冒険心を私に呼び起こした。日本からヨットで海を渡ってアメリカに行くことだ。ぼんやり頭に思い描いたことが現実になったのは、それから16年後のことだった。

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